3部門の構成
フィロソフィア 第10回 第1部
「もう一つの世界=友愛世界」の構築とグローバル・スピリチュアリティー
2007年4月30日 於:田町 キャンパスイノベーションセンター
「フィロソフィアの新展開――3部門構想について」
フィロソフィアの沿革
(1)前史 ・大学時代のサロン85-89(平成元年)の試み
対話の広場、ネットワーキング論、理念運動
・理念哲学協会・アカデメイア(90-98)
・新世界アカデミー(94―98)
(2)第1期(2005-2006)
・講義+ゼミ(プラトンの作品) 中期作品まで。
→第2期
今日の第一部は、「フィロソフィアの新展開――三部門構成について」という話です。
というのは、実はこのフィロソフィアは、大体毎月一回やっていたのですけれども、昨年の3月位から正式の会合はしばらく中断しておりまして、今日は再開という形になります。そこで、今後フィロソフィアをどういう風にやるのか、ということについて、構想を述べようと思うのです。フィロソフィアの他に、これからお話するような色々な運動を私がしていますので、それら全体をここで整理してみようと思います。
レジメの一枚目に、フィロソフィアの沿革、として、(1) 前史、(2) 第1期とあります。実は最近のフィロソフィアの前に、ここには私以外には誰もいないのですが、もっと前の試みがあるのですね。今日はその元々の所からお話してみようと思って前史という整理をしてみました。詳しく言えば、ここにもいくつかの段階があるのですが、あまり細部をお話しする必要はないと思いますので、ここでは簡単に「前史」としておきます。
私が大学時代あるいは助手だった頃に、周囲の大学生たちと対話の広場を作る試みをしました。理念としては、堅苦しい大学の講義やゼミと、喫茶店の雑談の間を媒介するような、対話の交流会を作る、という目的を掲げていました。そして報告者が好きなテキストを指定し、一種の読書会のような形で感想を述べたり議論をしたりしていました。それを「サロン」と呼び、その年を付して、「サロン85」というように言っていました。サロン85から89ぐらいまで続いていたと思います。
そこでは、学問的な本も取り上げましたけれども、文学作品や心理的・社会的なテーマのものも取り上げられて、実存的な問題についても論じていました。たとえば、「愛」については、私も含め相当議論した覚えがあります。
いま振り返ってみれば、これはまさしく文芸的公共圏(ハーバーマス)に相当しますね。公共空間として対話の場が重要であり、ハーバーマスは近代におけるその歴史的展開として、イギリスのティー・ハウスやフランスのサロンに注目していますが、私たちはまさしく「サロン」という名前を使っていたのです。当時は公共哲学やハーバーマスについてはあまり知りませんでしたから、期せずして公共哲学の考え方に即した活動をしていたわけです。
そこで私は色々と考え方を練って、社会運動の観点から当時注目されつつあった、ネットワーキング論に着目し、「今後の社会運動などにおいては草の根ネットワーキングというアプローチが重要ではないか」というような話をしていました。
さらに、思想的には特にプラトン哲学に惹かれるところがあって、プラトン的な哲学を理念哲学と呼びました。そして、このような思想を軸にしてグループを再編し発足させて、アカデメイアと呼びました。90年頃からです。後に、千葉大学で「政治哲学研究会」という学問的な研究会を開催していた時期がありますが、このアカデメイアはプラトン哲学を中心にした市民中心の会だったのです。
そして、それを発展させて、私の友人・知人たちを中心に、後述するような、アカデメイア・フィロソフィア・フィラデルフィアという3部門の構想を語っていたのです。当時はそれを「理念哲学協会」と呼んでいました。
それから、私の父(小林彌六)と一緒に、友愛経済学、友愛(社会)主義というような経済学を中心にした思想を考えたこともございまして、これについては父の本が何冊か出ています。そのはじめの本である『新ユートピア経済学』は、たま出版という会社から1993年に刊行されています。たま出版というのは、精神世界の刊行物で有名な会社なのですけれど、その会社の当時の社長(瓜谷侑広氏)は東京大学の経済学部出身の人であられて、父と意気投合して3人で、新しい世界のアカデミーを開始しようというという趣旨で、「新世界アカデミー」という会をしばらく開催していたのですね。94年から98年です。私が海外に研究に行っていた間に社長が亡くなられたので、自然消滅したという感じです。当時まだ私は若かったので、実名でこのような活動をしたくはなくて、別の名前を用いていたのです。
この後、ケンブリッジ大学に海外研修に行き、政治哲学や「社会科学の哲学」を学び、それを日本に導入しようと思いながら97年に帰国しました。日本には、「政治思想史」や「政治学史」の講義はありますが、「政治哲学」の講義はほとんどないからです。それで、後に千葉大学では「政治哲学」という講義を設けました。今でも、日本の大学では数少ないだろうと思います。
そして、ちょうど公共哲学のプロジェクトが開始されるタイミングだったので、その後は、公共哲学や政治哲学の方に携わって、現在もこれらについて力を入れて研究しているのです。
そして2001年の9.11事件以降、特に平和問題を中心にして、公共哲学ネットワークを開始しました。その流れの中で、イラク戦争の可能性がきわめて高くなった2003年の元旦に地球平和公共ネットワークというネットワークを作ったわけです。そのシンポジウムを開催した時にスタッフ同士で衝突が起こり人間関係などの問題が起こりました。このような問題を解決するために、哲学的・思想的な観点から精神的な問題も扱った方が良いと考えて、フィロソフィアという小さな会を始めました。これが今のフィロソフィア、第1期の出発点ですね。
初めは、そのネットワークの中で私に好感を持ってくれた若い人たちが、一種のファン・クラブのような形で、居酒屋(新宿3丁目の「ごまや」だったかな?)で小さな会合を開催してくれたのです。2004年12月5日のことです。当時の大学生たちが、私の平和活動の精神的源泉に関心があって、「その秘密を聞きたい」という感じでしたね。当時は地球平和公共ネットワークにおいては運営について相当激しい議論をしていて私を批判する人もいたので、それに対してこのようなリラックスする雰囲気の会合を催してくれたことは嬉しかったですね。それで聞かれるままに精神的背景なども説明し、その人たちの相談にも乗ってアドバイスしたりしました。
これがフィロソフィアの出発点で、居酒屋で2回ぐらい。この会合を継続して、もっと勉強会のようにしたいという声があって、テキストを用いて議論することにしたのです。これが2005年からスタートして2006年まで継続し、前からいらっしゃっている方々は、このフィロソフィア第1期の参加者ということになります。
そこでは大学のゼミに似た形でプラトンの作品を取り上げました。主として岩波文庫に収録されている作品を一つ一つ取り上げながら、まずゼミ形式でレポートして頂いて、私がそれに関する講義をしたり、「そういった思想を今日の段階でどのように生かすか、再構成するか」という話をしたのです。初期の作品から順に取り上げ、中期の代表作である『国家(ポリテイア)』がおわって、その後の作品に入りかけた所で、事情あって中断したということになります。そして、今日から再開するので、これが第3期という形になると思います。
3部門構想
アカデメイア + フィロソフィア +フィラデルフィア
理論哲学と学の総体(学知) 実践哲学(叡智・智恵) 友愛のネットワーク(友愛)
学問の中心+ネットワーク
正しい思惟+友愛の実践
愛知・愛智の道+愛
今後の展開を考えるにあたってなぜさきほど前史の話をしたかといいますと、実はその後に行った様々な活動には、この前史の時に考えた構想が、アイデアとしては基礎にあって、それが色々な形で展開しているのです、しかしそれぞれがバラバラの形で全部展開していて、私が忙しくなりすぎてどうにもならなくなりましたので、全体を再構成していこうと思うのです。そこで、私の関係している各種のグループやネットワークについて全体的な再構成をして、うまくリンクできる形を作りたい、と考えているのです。そこで(1)の「3部門構成」として、前史の時に考えていたことを思い出しながら、どう再構成するか計画をお話したいと思います。
前史の頃に考えていたのは、やはり色々な草の根のネットワーキングで社会を変革するという可能性を追求するにあたって、「その中軸に、やはり学問的・思想的な中心が要るのではないか」ということなのです。当時、ネットワーク運動についてアメリカで注目されて本が刊行され、日本でもそれが紹介されて、いくつか、草の根のグループのネットワーク作りの本が出たのです。その概観として、「どういうグループがどういう風に活動しているか」という地図を作る本もあったのです。ただ、それらのグループには、色々な多様性もある中で、おそらく玉石混淆で、色々な問題もあるのではないか、というふうに思って、「学問とか思想の中心がないと、全体の変革には至らないのではないか」と思ったのです。
そこで学問的な中心を作る必要があると考えて、それを当時、アカデメイアと呼びました。プラトンの創始した学園の名前を冠したのです。「新しい世界の起点になるような学問の中心を作りたい」ということを目的にして、学問の原点に回帰して、「本来の学問の再建を目指す」という趣旨でこの名前を考えたわけです。
今日の多くの学問には、非常に知的には洗練されたものがありますけれども、「現実の世界や、実際の生き方にどう活きるかわからない」という問題がございまして、「そういう人生哲学とか、実践哲学、こういった部分も補っていく必要があるだろう」と考えて、そのような目的の活動には「フィロソフィア」という名称を使っていました。「実践哲学として叡智とか智恵の会得をめざす」という意味で、この言葉を用いたのです。
さらに、ネットワークという考え方の中心に友愛の精神が必要であると考えて、「友愛のネットワーク」という考え方を提起し、それをフィラデルフィアと呼びました。ですから、始めの二つ(アカデメイア、フィロソフィア)はどちらかというと学問や哲学に関係し、これらが学問的・思想的なセンターに相当して、三つ目(フィラデルフィア)がネットワークに大体相当する、というイメージです。この全体を当時は「理念哲学協会」と呼んでいました。
センターから放射線状に広がるネットワークというのが、当時のイメージなのです。学問の中心の方は従って哲学や思想、思惟と関連しており、特に「正しい思惟とはどういうものか」ということを考える。ネットワークというのは、友愛の実践ですね。これは平和とか環境とか福祉とか街づくりとか色々な領域について考えられるわけですけれども、そういった様な各種のネットワークを形成する、ということですね。
哲学は語源から言えば愛智の道を意味します。ですからその愛智と友愛という二つを根本的な理念として、「智に基づく愛の実践を展開したらどうだろうか」というふうに考えたわけです。ちなみに、智にも二つの種類を考えることができまして、日本語では、日がついている「智」と、そうでない「知」がありますので、後者が学問的・科学的な「知」であるのに対して、前者は「智恵」や「叡智」のような実践的な側面も含む「知」と考えることができます。そこで、後者の「知」をアカデメイアの追求する課題、前者の「智」をフィロソフィアの追求する課題としました。日本語で言えばアカデメイアは「学知会」、フィロソフィアは「愛智会」、フィラデルフィアは「友愛会」ということになるのです。
アカデメイア
アカデメイア(学知会):真理
プラトンの学園アカデメイア→アカデミー 学の原点回帰、再建
真実の学の再現
(孔子―儒教 倫理-政治理論)
理論的公共哲学 現代的な「無知の知」→理念公共哲学
公共哲学を基軸にする学問改革
公共哲学センター・公共研究センター、COEプログラムの発展
このように、アカデメイアは中心的な理念としては真理・知識の追究であり、学知を目指す。私はプラトンが好きで、『プラトンの学園アカデメイア』(廣川洋一、講談社学術文庫、1980年、1999年)という本に触発されて、この名前を考えたのです。アカデメイアというのはギリシャの当時のアカデモスという英雄神を祭っていた森の名前から来るのですけれども、それがアカデミーの語源になっているのですね。「現在の学問のあり方を改革し、学問の原点にかえってそれを再建しよう。真実の学を再生しよう」と考えたのです。つまり、学問改革と、学問の原点回帰、再生という理念がアカデメイアの理念です。
学問というとヨーロッパの学問が中心なのですけれど、東洋の方もやはり重要だと考えて、東洋の学問としては特に孔子の儒教に着目していました。私はそれについて論文を書いたことがございまして、「倫理-政治理論」という概念を提起しました。ギリシャ哲学と中国哲学は、倫理と政治と両方を目標としているという点で共通性があるので、そこに注目してこの概念を考え、特にこの二つの伝統に注目していたわけです。
これらはいずれも公共哲学に深く関わっており、それぞれが西洋公共哲学と東洋公共哲学の出発点になります。とくにプラトン哲学は、公共哲学の中で、とくに理念(イデア)に基礎を置くので、「理念公共哲学」というふうに言い直すことができるだろうと思います。
学問改革の出発点、学問再生の起点として強調しているのは、ソクラテスにちなんだ「無知の知」という考え方です。現代的な「無知の知」として、科学的な「無知の知」が必要だ、ということです。
ソクラテスの場合、「ソクラテスが最高の賢者である」という趣旨のデルフォイの神託の真偽を確かめるために、いろいろな賢者や有名人と問答をして歩いて、初めは真理を知っているように見える人たちが、実は真理を知らないということを明らかにしていきます。それに対して、ソクラテス自身は「自分は知らない」ということを知っている。だから「無知の知」という点で、他の人よりも優れている、と納得する。デルフォイの神託が正しいことをこうやって確かめたわけですね。
今日の科学とか学問についても同じことが言えるのではなかろうか。今日の科学も様々な展開があるわけですけれど、しかし「実在あるいは真実の世界がどうであるか」ということについては、標準的な科学の理論ではまだ断定的な結論ができない。その点で我々はまだ科学的には「無知の知」の状態にある、というふうに考えるべきではないか。こういう考え方ですね。
逆に言えば、「正しい考え方が科学的・実証的に明らかになっている」というように考えるのは、誤りであるということになります。たとえば、科学主義的・実証主義的な考え方に基づく唯物論は、その典型でしょう。形而上学でいうような不可視の世界、形而上の世界は、そもそも定義上経験的には実証不可能ですから、科学に基づいて、それが存在しないとは断定できないのです1。
今日はこの先の話は割愛しますが、この前提の上にたって、理念や価値を考えること、つまり理念公共哲学を考えることができるのではないか、というふうに思っています。現代的「無知の知」がソクラテスの段階に相当するのに対し、これはプラトンの段階に相当することになります。あるいはドイツ観念論に対応させて考えれば、前者はカントの段階、後者はヘーゲルの段階に相当します。
公共哲学の運動や、それを基盤に展開している千葉大学のCOEプロジェクトは、長期的に見れば、このような学問改革、学問再生の起点になるだろうと思うのです。もっとも、COEプロジェクトは今日の公共哲学を基礎にしており、特にプラトン的哲学を前提にしているわけではありませんが、スピリチュアリティーのテーマも取り上げています。そして、学問の実践性の回復ということを中心にして、「学問改革」という目的を掲げています2。マルティン・ルターらがカトリック教会の腐敗を批判して宗教改革の流れを作ったように、今日の学問も実践的・現実的有意性を失っているので、これに対して学問改革を起こす必要があると思うのです。
千葉大学COEプログラムでは、このような目的を念頭に置いて、公共哲学センター、さらには公共研究センターが活動しています。公共哲学では哲学的・思想的な部分が中心であるのに対して、公共研究は、これと実証研究や政策研究、さらに歴史研究を統合するということを目指しています。今日の段階では、ここが以上のような学問改革や再生のためのセンターであるということができると思います。
これは現段階の公共哲学が基礎になっていますが、私個人としては、公共哲学をさらに上述のような方向に発展させて、津波のような学問改革を引き起こしたい、と思っています。
ですから、公共哲学を中心として今展開しているこの学問改革運動は、振り返ってみると、かつて構想したアカデメイアの理念の一つの発展形である、というふうに思えるわけですね。もちろん公共哲学運動やCOEプログラムに関わっている他の多くの先生方がそのような意図を持っておられるというわけではなく、考え方には多様性があります。でも、私の考え方に何らかの接点や類似点があるからこそ、これらが成立し積極的に推進されているのだろうと思います。その中で私が目指すのはそういう方向で、千葉大のCOEプログラムの公共哲学部門では学問改革を明示的に目標として謳っていますので、特にこのような方向性を持っている、ということができるだろうと思っています。
フィロソフィア
フィロソフィア(愛智会):叡智
philosophia (愛智) 智を愛するーー愛(エロース)による智――愛に立脚する智
プラトン哲学を中心にするスピリチュアルな智恵の探究
スピリチュアル(霊的)な哲学・智恵→超越的理念哲学
従来の哲学の限界を超えて、実践にも展開
―〈超哲学〉、〈超理念哲学〉 哲学(真)・宗教(善)・芸術(美)の統合
第1回記録 魂の哲学 美徳、潤い
実践的公共哲学 人生のアート(技芸術)の養成
人生の智恵――実践的・直観的叡智(霊智)
公共…人々に共有される、理解されて行為の指針となる
実践行為…運動、生活世界、実存(生き方そのもの)
愛の実践→友愛世界
人生への指針を与える哲学 新哲学主義 生きた対話の場
次にフィロソフィアについてですけれども、アカデメイアが学知を目標としているのに対して、こちらは実践的な智恵ないし叡智を求めるという点で「愛智の会」ということができます。ご存知の方も多いと思いますけれども、哲学(フィロソフィー)の語源はフィロソフィアで、もともとは「智(ソフィア)を愛する、智を求める」という意味です。この「愛する、求める」(フィロ)はギリシャ哲学ではエロスと近いですね。エロスは何かに向かっていくという愛で、フィロソフィアはそういう愛による智。あるいは愛に立脚する智を求めている、というふうに言うことができるだろうと思うのです。
そして特にこのフィロソフィアでは、プラトン哲学を原点として、形而上学ないしスピリチュアルな哲学を重視し、スピリチュアルな智恵の探求を目的としています。プラトン哲学においては、イデアの観照ということになります。ですから公共哲学の中でも、特に超越的な理念哲学がこのフィロソフィアの一番中軸にあるべき考え方です。
これから申し上げます昨年のシンポジウムでも、「スピリチュアリティと平和」というテーマを取り上げたわけですけれども、スピリチュアルな哲学を考えてみると、やはりヨーロッパ哲学では、一番原点にあるのは、プラトンの哲学で、それがその後、様々な形へと展開していくのです。
そこで、第1期のフィロソフィアではプラトンのテキストを中心に考察してきたのですけれども、元々は、プラトン哲学の議論が一通り終わった段階で、近代とか現代の様々な哲学についてテキストとして取り上げながら、議論を展開するという予定を考えていました。プラトン哲学に限定するのではなくて、その後の哲学総体を視野に入れながら、スピリチュアルな哲学の展開を考察してゆく。こういったことを考えていくのも、このフィロソフィアの中心的な目的の一つなのです。その後の流れでは、ドイツの観念論や、あるいはアメリカのtranscendentalism(超越主義)などがすぐに浮かびますけれども、「そういった思想を今日の地平でどのように再構成し、発展させていくか」ということがフィロソフィアの基本的な発想だろうと思っています。
それからもう一つは、山脇先生をはじめ公共哲学運動自体でも強調しているのですけれども、日本の一般的な哲学研究は、しばしば訓詁注釈学になっているところがあって、「今日の、現実の世界にどう適用するか」という実践面、あるいは「どう生きるか」という生き方に対する見解が弱いと思わざるを得ない部分があるのですね。これに対し、フィロソフィアは、同じ哲学といっても、むしろ実践志向の、「実践的哲学」を目指すのです。その意味で従来の(日本における)哲学の限界を超えようとしています。いわば、哲学を超える哲学という点で「超哲学」ということができるかもしれません。
第2期のフィロソフィアがスタートした時の一回目の講義は、イタリアのフィレンツェに行った直後に行いましたので、そのイタリアのルネッサンスの人文主義の理念を思い起こして、ルネッサンスの例をあげながら、「哲学と宗教と芸術の統合、真と善と美の統合を21世紀の地平において再構成する」という理想を述べたのです。私はアーティスティックな教養を持っているわけではないので自分で芸術作品まで作ることはできませんが、理念としてはそういうことを目指したいと思っています。
さらに、芸術(アート)はいわゆる芸術作品だけではなく、人生をはじめ様々なところに観ることができます。私自身の実践的公共哲学においては、人生のアート(技術ないし芸術)という表現を用いています。芸術のアートを応用して、人生のアートと言っているのです。もともとは、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』(紀伊国屋書店、1991年)における「愛のアート(技術・芸術)」という表現に触発されて、こういう言葉を考えたのです。愛のアートや人生のアートをどう養成するか。人生の智慧をどのように会得するか。これらを実現するためには、情報としての知識だけでは決定的に不十分で、実践的ないし直観的な智恵ないし叡智が必要になるだろうと思います。これをスピリチュアル(霊的)なインスピレーションによる智恵ないし叡智と考えれば、それは「霊智」ですね。こういったものも視野に入れて考えていこうとしています。
公共哲学という概念の中の一つとしては、人々に理解され共有されて、行動の指針となるような哲学という意味があります。そこで、現実の実践行為に非常に関わるのです。それは、たとえば各種の運動ないし活動とか、生活とか、実存(生き方そのもの)ですね。ですから、実践的公共哲学では、こういった実際の実践の中で生かしていくようなアートを「人生のアート」として追求しようと考えています。
次に、友愛という概念を中心として、理想世界、友愛世界という考え方を提起しますけれども、フィロソフィアではその実現に役立つような実践的な哲学の発展を目指すわけです。そういう意味では、これは、人生、あるいは人間の指針を与える哲学ということになり、日本における従来の哲学のイメージとは異なるので「新哲学主義」というふうに表現することもできると思うのです。
ソクラテスを想起すれば明らかなように、哲学の場においては特に対話が大事です。そこでは、生きた対話の場の形成も、新哲学主義の実践の一つです。
フィラデルフィア
フィラデルフィア(友愛会=友の会)
philadelphia フィリア(友愛・親愛)→兄弟愛・同胞愛の場
cf. philanthropy(博愛、慈善)
ウィリアム・ペン クウェーカー(神秘主義的、絶対的平和主義)
society of friends ――1681渡米してフィラデルフィア建設
連帯 実践的な愛
ex. 公共哲学ネットワーク、地球平和公共ネットワーク(友愛会が存在)、平和への結集、教育基本法改定に抗する大学人ネットワーク、国民投票法・改憲に反対する大学人ネットワーク
→友愛の精神の下に連携、統合 友愛ネットワーク=光のネットワーク
メタ・ネットワーク 様々な領域のネットワークのネットワーク
→「もう一つの世界・日本=友愛世界」の実現
都市フィラデルフィアの歴史
それから次にフィラデルフィアですけれども、これは訳すと友愛会とか友の会になるだろうと思うのです。フィラデルフィア(philadelphia)というのは,ギリシャ語のphiladelpheiaで、「phi(愛する)+ adelph(兄)+ ia(存在物)」という意味で、兄弟愛・同胞愛の都市を意味します。だから、アリストテレスが重視したphilia(フィリア、友愛)と関連しているのです。フィランソロピー philanthropyとも関連しており、博愛とか慈善とも共通性があります。
フィラデルフィアというのはアメリカの都市の名前なのですけれども、なぜあれがフィラデルフィアという名前になっているかといいますと、クエーカー教徒が建設したからです。これは、キリスト教の中の一派ですが、クエーカーは神秘主義的で、万人に神の内なる光が宿っていることを信じて、その導きに従って生きることを説きます。暴力を否定して、絶対的な平和主義や良心的兵役拒否で知られています。
そのクエーカーのウィリアム・ペンがイギリスからアメリカにわたって、1681年にフィラデルフィアを建設した。クエーカーは友会(Society of Friends)と自称しており、友愛の都市という意味で、フィラデルフィアという名前をつけたのですね。クエーカーでは友愛という言葉をよく使っています。それで、アメリカの都市というより、「友愛・兄弟愛の都市」という言葉の語源の方を意識して、フィラデルフィアという名称を使うことにしたのです。
私たちの会では、フィラデルフィアは、実践的な友愛のネットワークを意味しています。これまで、公共哲学を軸にしながら、様々なネットワークを展開して来ていまして、9・11以降にはじめにつくったものは、公共哲学ネットワーク。それからイラク戦争直前の2003年元旦に、研究者と市民とが連携して平和問題を中心に作ったものが、地球平和公共ネットワークですね。両方ともいま私が代表ですけれども、その地球平和公共ネットワークには、それを支えるグループとして、友愛会というものを作りました。それから、最近の教育基本法の改定とか、国民投票法案の改定時に、「教育基本法改定に抗する大学人ネットワーク」とか、「国民投票法に反対する大学人ネットワーク」などを作って3、教育問題や憲法問題についての色々な意見表明、あるいは署名活動等を行ってきているのです。
ただ、あまりにもこういう活動が多くなりすぎて、どうにもこうにもならなくなってしまいましたので、何とかここで私自身は自分の関わる活動を再構成したいと思い、今のような三部門構成を振り返りながら、今後自分の活動を全体として再構築してみた13いと思っております。
『非戦の哲学』という本を、ちくま新書から2003年に出しました。これは、9・11以降、私が公共哲学ネットワークのサイトに書いた様々な文章を、イラク戦が迫ってきたので、その前に新書にまとめたものなのです。その中の一つの章に、運動編というものがござい まして、新しい時代の運動論を提案しています。今は残念ながら売り切れで、新刊では手に入らなくなってしまっているのですけれど、そこで「友愛ネットワーク」という考え方を提起しました。
それは、平和をはじめとして諸領域において、友愛のネットワークをつくり、それらを相互に連携させるという構想です。友愛の精神のもとに様々なネットワークを連携、統合する。そうして光のネットワークがより広がっていくことによって、しかもそれがミクロからマクロへと展開することによって、社会全体の変革が達成される。こういう運動の方法論です。マルクス主義に対する批判から説き起こしていて、「かつてのマルクス主義的な革命運動が何ゆえに失敗したか。それに対してどのようにして社会変革を可能にするか」ということを考え、その方法論として「友愛のネットワーク」というものを提案したわけです。
そのようなネットワークは様々な領域に存在するわけですけれども、ばらばらになっていると力が小さいので、それらを相互に連携して統合していくのが、メタ・ネットワークという考え方です。これは「ネットワークのネットワーク」を意味しています。そういうメタ・ネットワークが広範に広がっていくことによって、「もう一つの世界」や「もう一つの日本」が実現していく。そのようなネットワークの目指す友愛の世界を「友愛世界」と呼ンでいます。
メタ・ネットワークやネットワークないしグループ間の連携を目指す実践的な試みもしてきました。地球平和公共ネットワークの有志が当初は提案して、平和グループ間の連携を促すために情報提供のフォーラムを作ろうとする試みを行い、pepop(peace portal program)というサイトを作りました4。また、政治的に選挙を意識した「平和への結集」も提案して、「『平和への結集』をめざす市民の風」という団体も誕生しました.
このように、『非戦の哲学』で書いた構想を、とくに平和問題を中心にして展開してきたのが、これまで述べてきたような様々なネットワークということになります5。ただそれぞれのネットワークは、はじめに友愛理念などをうたって結成したわけではなくて、それぞれの必要性に応じて作られています。私自身はこれらがばらばらに動いていて非常に今大変なので、何とか自分の活動を一つの形に統合して、連携を形成していきたいと考えているのです。
以上が、今まで私が第一期以来考えてきた理念のもとで今どういう活動を行っているか、ということを総括しながら整理したものです。これで第1部を終わりたいと思います。
3部門のイメージ
学びあい、生かし、巡りあい
①3つの円 ②3重の同心円
エピソード「大事な時を過ごしました。ありがとう。これよりの世にむかいて、必らず正しいまとを射ぬいてください。ひとつの大円です。」(2007.4.4)
この三つをキャッチフレーズのように考えてみると、「学びあい、生かしあい、巡りあい」ということになります。この三部門の関係をイメージとして考えてみると、二つのイメージが浮かんできます。
一つ目は、学問の中心であるアカデメイア、実践的な哲学の会であるフィロソフィア、友愛のネットワークであるフィラデルフィアは、それぞれ相互に重なるところもありながら、別のものなので、3つの丸で書く。それぞれに共通性もあるけれども、違う所もあるし、相互にお互いの活動を知らなくてもできる。メンバーも2つや3つに属している人もいるけれども、一つだけに加わっている人もいる。こういうイメージです。
二番目のイメージとしては、三重の同心円で描くことも考えられます。これはどういう意味かというと、一番初めに述べたように、当初のイメージは、「まず思想的・学問的センターがあって、そこから広範に広がっていくネットワークが形成される」というイメージだったのですね。
その思想的なセンターの中をさらに二つに分けて、アカデメイアとフィロソフィアというふうにしたのですけれども、アカデメイアの方は学問ですからある意味では広範な広がりがあって、その中には、社会諸科学や人文諸科学、場合によっては自然科学まで入ってくるわけです。
それでフィロソフィアの方は、哲学、とくにスピリチュアルな哲学を扱っているので、アカデメイアのさらに中核にフィロソフィアがあるというイメージが考えられます。ですから、「フィロソフィアを中核にしながら、その周りにアカデメイアがあり、さらにその外円としてフィラデルフィアがある」というように描くこともできるだろう、とも思ったのです。
おもしろいことに、先日、ある方と会ったときに、エピソードに書いてあるような言葉をある人からもらったのですが、ここにある「一つの大円」という言葉を見てこの3重の同士円のイメージを思い出しました。
以上、簡単ながら、3つの部門のイメージと、全体の活動の総括的なお話をしました。
フィロソフィア 第10回 第1部
「もう一つの世界=友愛世界」の構築とグローバル・スピリチュアリティー
2007年4月30日 於:田町 キャンパスイノベーションセンター
「フィロソフィアの新展開――3部門構想について」
フィロソフィアの沿革
(1)前史 ・大学時代のサロン85-89(平成元年)の試み
対話の広場、ネットワーキング論、理念運動
・理念哲学協会・アカデメイア(90-98)
・新世界アカデミー(94―98)
(2)第1期(2005-2006)
・講義+ゼミ(プラトンの作品) 中期作品まで。
→第2期
今日の第一部は、「フィロソフィアの新展開――三部門構成について」という話です。
というのは、実はこのフィロソフィアは、大体毎月一回やっていたのですけれども、昨年の3月位から正式の会合はしばらく中断しておりまして、今日は再開という形になります。そこで、今後フィロソフィアをどういう風にやるのか、ということについて、構想を述べようと思うのです。フィロソフィアの他に、これからお話するような色々な運動を私がしていますので、それら全体をここで整理してみようと思います。
レジメの一枚目に、フィロソフィアの沿革、として、(1) 前史、(2) 第1期とあります。実は最近のフィロソフィアの前に、ここには私以外には誰もいないのですが、もっと前の試みがあるのですね。今日はその元々の所からお話してみようと思って前史という整理をしてみました。詳しく言えば、ここにもいくつかの段階があるのですが、あまり細部をお話しする必要はないと思いますので、ここでは簡単に「前史」としておきます。
私が大学時代あるいは助手だった頃に、周囲の大学生たちと対話の広場を作る試みをしました。理念としては、堅苦しい大学の講義やゼミと、喫茶店の雑談の間を媒介するような、対話の交流会を作る、という目的を掲げていました。そして報告者が好きなテキストを指定し、一種の読書会のような形で感想を述べたり議論をしたりしていました。それを「サロン」と呼び、その年を付して、「サロン85」というように言っていました。サロン85から89ぐらいまで続いていたと思います。
そこでは、学問的な本も取り上げましたけれども、文学作品や心理的・社会的なテーマのものも取り上げられて、実存的な問題についても論じていました。たとえば、「愛」については、私も含め相当議論した覚えがあります。
いま振り返ってみれば、これはまさしく文芸的公共圏(ハーバーマス)に相当しますね。公共空間として対話の場が重要であり、ハーバーマスは近代におけるその歴史的展開として、イギリスのティー・ハウスやフランスのサロンに注目していますが、私たちはまさしく「サロン」という名前を使っていたのです。当時は公共哲学やハーバーマスについてはあまり知りませんでしたから、期せずして公共哲学の考え方に即した活動をしていたわけです。
そこで私は色々と考え方を練って、社会運動の観点から当時注目されつつあった、ネットワーキング論に着目し、「今後の社会運動などにおいては草の根ネットワーキングというアプローチが重要ではないか」というような話をしていました。
さらに、思想的には特にプラトン哲学に惹かれるところがあって、プラトン的な哲学を理念哲学と呼びました。そして、このような思想を軸にしてグループを再編し発足させて、アカデメイアと呼びました。90年頃からです。後に、千葉大学で「政治哲学研究会」という学問的な研究会を開催していた時期がありますが、このアカデメイアはプラトン哲学を中心にした市民中心の会だったのです。
そして、それを発展させて、私の友人・知人たちを中心に、後述するような、アカデメイア・フィロソフィア・フィラデルフィアという3部門の構想を語っていたのです。当時はそれを「理念哲学協会」と呼んでいました。
それから、私の父(小林彌六)と一緒に、友愛経済学、友愛(社会)主義というような経済学を中心にした思想を考えたこともございまして、これについては父の本が何冊か出ています。そのはじめの本である『新ユートピア経済学』は、たま出版という会社から1993年に刊行されています。たま出版というのは、精神世界の刊行物で有名な会社なのですけれど、その会社の当時の社長(瓜谷侑広氏)は東京大学の経済学部出身の人であられて、父と意気投合して3人で、新しい世界のアカデミーを開始しようというという趣旨で、「新世界アカデミー」という会をしばらく開催していたのですね。94年から98年です。私が海外に研究に行っていた間に社長が亡くなられたので、自然消滅したという感じです。当時まだ私は若かったので、実名でこのような活動をしたくはなくて、別の名前を用いていたのです。
この後、ケンブリッジ大学に海外研修に行き、政治哲学や「社会科学の哲学」を学び、それを日本に導入しようと思いながら97年に帰国しました。日本には、「政治思想史」や「政治学史」の講義はありますが、「政治哲学」の講義はほとんどないからです。それで、後に千葉大学では「政治哲学」という講義を設けました。今でも、日本の大学では数少ないだろうと思います。
そして、ちょうど公共哲学のプロジェクトが開始されるタイミングだったので、その後は、公共哲学や政治哲学の方に携わって、現在もこれらについて力を入れて研究しているのです。
そして2001年の9.11事件以降、特に平和問題を中心にして、公共哲学ネットワークを開始しました。その流れの中で、イラク戦争の可能性がきわめて高くなった2003年の元旦に地球平和公共ネットワークというネットワークを作ったわけです。そのシンポジウムを開催した時にスタッフ同士で衝突が起こり人間関係などの問題が起こりました。このような問題を解決するために、哲学的・思想的な観点から精神的な問題も扱った方が良いと考えて、フィロソフィアという小さな会を始めました。これが今のフィロソフィア、第1期の出発点ですね。
初めは、そのネットワークの中で私に好感を持ってくれた若い人たちが、一種のファン・クラブのような形で、居酒屋(新宿3丁目の「ごまや」だったかな?)で小さな会合を開催してくれたのです。2004年12月5日のことです。当時の大学生たちが、私の平和活動の精神的源泉に関心があって、「その秘密を聞きたい」という感じでしたね。当時は地球平和公共ネットワークにおいては運営について相当激しい議論をしていて私を批判する人もいたので、それに対してこのようなリラックスする雰囲気の会合を催してくれたことは嬉しかったですね。それで聞かれるままに精神的背景なども説明し、その人たちの相談にも乗ってアドバイスしたりしました。
これがフィロソフィアの出発点で、居酒屋で2回ぐらい。この会合を継続して、もっと勉強会のようにしたいという声があって、テキストを用いて議論することにしたのです。これが2005年からスタートして2006年まで継続し、前からいらっしゃっている方々は、このフィロソフィア第1期の参加者ということになります。
そこでは大学のゼミに似た形でプラトンの作品を取り上げました。主として岩波文庫に収録されている作品を一つ一つ取り上げながら、まずゼミ形式でレポートして頂いて、私がそれに関する講義をしたり、「そういった思想を今日の段階でどのように生かすか、再構成するか」という話をしたのです。初期の作品から順に取り上げ、中期の代表作である『国家(ポリテイア)』がおわって、その後の作品に入りかけた所で、事情あって中断したということになります。そして、今日から再開するので、これが第3期という形になると思います。
3部門構想
アカデメイア + フィロソフィア +フィラデルフィア
理論哲学と学の総体(学知) 実践哲学(叡智・智恵) 友愛のネットワーク(友愛)
学問の中心+ネットワーク
正しい思惟+友愛の実践
愛知・愛智の道+愛
今後の展開を考えるにあたってなぜさきほど前史の話をしたかといいますと、実はその後に行った様々な活動には、この前史の時に考えた構想が、アイデアとしては基礎にあって、それが色々な形で展開しているのです、しかしそれぞれがバラバラの形で全部展開していて、私が忙しくなりすぎてどうにもならなくなりましたので、全体を再構成していこうと思うのです。そこで、私の関係している各種のグループやネットワークについて全体的な再構成をして、うまくリンクできる形を作りたい、と考えているのです。そこで(1)の「3部門構成」として、前史の時に考えていたことを思い出しながら、どう再構成するか計画をお話したいと思います。
前史の頃に考えていたのは、やはり色々な草の根のネットワーキングで社会を変革するという可能性を追求するにあたって、「その中軸に、やはり学問的・思想的な中心が要るのではないか」ということなのです。当時、ネットワーク運動についてアメリカで注目されて本が刊行され、日本でもそれが紹介されて、いくつか、草の根のグループのネットワーク作りの本が出たのです。その概観として、「どういうグループがどういう風に活動しているか」という地図を作る本もあったのです。ただ、それらのグループには、色々な多様性もある中で、おそらく玉石混淆で、色々な問題もあるのではないか、というふうに思って、「学問とか思想の中心がないと、全体の変革には至らないのではないか」と思ったのです。
そこで学問的な中心を作る必要があると考えて、それを当時、アカデメイアと呼びました。プラトンの創始した学園の名前を冠したのです。「新しい世界の起点になるような学問の中心を作りたい」ということを目的にして、学問の原点に回帰して、「本来の学問の再建を目指す」という趣旨でこの名前を考えたわけです。
今日の多くの学問には、非常に知的には洗練されたものがありますけれども、「現実の世界や、実際の生き方にどう活きるかわからない」という問題がございまして、「そういう人生哲学とか、実践哲学、こういった部分も補っていく必要があるだろう」と考えて、そのような目的の活動には「フィロソフィア」という名称を使っていました。「実践哲学として叡智とか智恵の会得をめざす」という意味で、この言葉を用いたのです。
さらに、ネットワークという考え方の中心に友愛の精神が必要であると考えて、「友愛のネットワーク」という考え方を提起し、それをフィラデルフィアと呼びました。ですから、始めの二つ(アカデメイア、フィロソフィア)はどちらかというと学問や哲学に関係し、これらが学問的・思想的なセンターに相当して、三つ目(フィラデルフィア)がネットワークに大体相当する、というイメージです。この全体を当時は「理念哲学協会」と呼んでいました。
センターから放射線状に広がるネットワークというのが、当時のイメージなのです。学問の中心の方は従って哲学や思想、思惟と関連しており、特に「正しい思惟とはどういうものか」ということを考える。ネットワークというのは、友愛の実践ですね。これは平和とか環境とか福祉とか街づくりとか色々な領域について考えられるわけですけれども、そういった様な各種のネットワークを形成する、ということですね。
哲学は語源から言えば愛智の道を意味します。ですからその愛智と友愛という二つを根本的な理念として、「智に基づく愛の実践を展開したらどうだろうか」というふうに考えたわけです。ちなみに、智にも二つの種類を考えることができまして、日本語では、日がついている「智」と、そうでない「知」がありますので、後者が学問的・科学的な「知」であるのに対して、前者は「智恵」や「叡智」のような実践的な側面も含む「知」と考えることができます。そこで、後者の「知」をアカデメイアの追求する課題、前者の「智」をフィロソフィアの追求する課題としました。日本語で言えばアカデメイアは「学知会」、フィロソフィアは「愛智会」、フィラデルフィアは「友愛会」ということになるのです。
アカデメイア
アカデメイア(学知会):真理
プラトンの学園アカデメイア→アカデミー 学の原点回帰、再建
真実の学の再現
(孔子―儒教 倫理-政治理論)
理論的公共哲学 現代的な「無知の知」→理念公共哲学
公共哲学を基軸にする学問改革
公共哲学センター・公共研究センター、COEプログラムの発展
このように、アカデメイアは中心的な理念としては真理・知識の追究であり、学知を目指す。私はプラトンが好きで、『プラトンの学園アカデメイア』(廣川洋一、講談社学術文庫、1980年、1999年)という本に触発されて、この名前を考えたのです。アカデメイアというのはギリシャの当時のアカデモスという英雄神を祭っていた森の名前から来るのですけれども、それがアカデミーの語源になっているのですね。「現在の学問のあり方を改革し、学問の原点にかえってそれを再建しよう。真実の学を再生しよう」と考えたのです。つまり、学問改革と、学問の原点回帰、再生という理念がアカデメイアの理念です。
学問というとヨーロッパの学問が中心なのですけれど、東洋の方もやはり重要だと考えて、東洋の学問としては特に孔子の儒教に着目していました。私はそれについて論文を書いたことがございまして、「倫理-政治理論」という概念を提起しました。ギリシャ哲学と中国哲学は、倫理と政治と両方を目標としているという点で共通性があるので、そこに注目してこの概念を考え、特にこの二つの伝統に注目していたわけです。
これらはいずれも公共哲学に深く関わっており、それぞれが西洋公共哲学と東洋公共哲学の出発点になります。とくにプラトン哲学は、公共哲学の中で、とくに理念(イデア)に基礎を置くので、「理念公共哲学」というふうに言い直すことができるだろうと思います。
学問改革の出発点、学問再生の起点として強調しているのは、ソクラテスにちなんだ「無知の知」という考え方です。現代的な「無知の知」として、科学的な「無知の知」が必要だ、ということです。
ソクラテスの場合、「ソクラテスが最高の賢者である」という趣旨のデルフォイの神託の真偽を確かめるために、いろいろな賢者や有名人と問答をして歩いて、初めは真理を知っているように見える人たちが、実は真理を知らないということを明らかにしていきます。それに対して、ソクラテス自身は「自分は知らない」ということを知っている。だから「無知の知」という点で、他の人よりも優れている、と納得する。デルフォイの神託が正しいことをこうやって確かめたわけですね。
今日の科学とか学問についても同じことが言えるのではなかろうか。今日の科学も様々な展開があるわけですけれど、しかし「実在あるいは真実の世界がどうであるか」ということについては、標準的な科学の理論ではまだ断定的な結論ができない。その点で我々はまだ科学的には「無知の知」の状態にある、というふうに考えるべきではないか。こういう考え方ですね。
逆に言えば、「正しい考え方が科学的・実証的に明らかになっている」というように考えるのは、誤りであるということになります。たとえば、科学主義的・実証主義的な考え方に基づく唯物論は、その典型でしょう。形而上学でいうような不可視の世界、形而上の世界は、そもそも定義上経験的には実証不可能ですから、科学に基づいて、それが存在しないとは断定できないのです1。
今日はこの先の話は割愛しますが、この前提の上にたって、理念や価値を考えること、つまり理念公共哲学を考えることができるのではないか、というふうに思っています。現代的「無知の知」がソクラテスの段階に相当するのに対し、これはプラトンの段階に相当することになります。あるいはドイツ観念論に対応させて考えれば、前者はカントの段階、後者はヘーゲルの段階に相当します。
公共哲学の運動や、それを基盤に展開している千葉大学のCOEプロジェクトは、長期的に見れば、このような学問改革、学問再生の起点になるだろうと思うのです。もっとも、COEプロジェクトは今日の公共哲学を基礎にしており、特にプラトン的哲学を前提にしているわけではありませんが、スピリチュアリティーのテーマも取り上げています。そして、学問の実践性の回復ということを中心にして、「学問改革」という目的を掲げています2。マルティン・ルターらがカトリック教会の腐敗を批判して宗教改革の流れを作ったように、今日の学問も実践的・現実的有意性を失っているので、これに対して学問改革を起こす必要があると思うのです。
千葉大学COEプログラムでは、このような目的を念頭に置いて、公共哲学センター、さらには公共研究センターが活動しています。公共哲学では哲学的・思想的な部分が中心であるのに対して、公共研究は、これと実証研究や政策研究、さらに歴史研究を統合するということを目指しています。今日の段階では、ここが以上のような学問改革や再生のためのセンターであるということができると思います。
これは現段階の公共哲学が基礎になっていますが、私個人としては、公共哲学をさらに上述のような方向に発展させて、津波のような学問改革を引き起こしたい、と思っています。
ですから、公共哲学を中心として今展開しているこの学問改革運動は、振り返ってみると、かつて構想したアカデメイアの理念の一つの発展形である、というふうに思えるわけですね。もちろん公共哲学運動やCOEプログラムに関わっている他の多くの先生方がそのような意図を持っておられるというわけではなく、考え方には多様性があります。でも、私の考え方に何らかの接点や類似点があるからこそ、これらが成立し積極的に推進されているのだろうと思います。その中で私が目指すのはそういう方向で、千葉大のCOEプログラムの公共哲学部門では学問改革を明示的に目標として謳っていますので、特にこのような方向性を持っている、ということができるだろうと思っています。
フィロソフィア
フィロソフィア(愛智会):叡智
philosophia (愛智) 智を愛するーー愛(エロース)による智――愛に立脚する智
プラトン哲学を中心にするスピリチュアルな智恵の探究
スピリチュアル(霊的)な哲学・智恵→超越的理念哲学
従来の哲学の限界を超えて、実践にも展開
―〈超哲学〉、〈超理念哲学〉 哲学(真)・宗教(善)・芸術(美)の統合
第1回記録 魂の哲学 美徳、潤い
実践的公共哲学 人生のアート(技芸術)の養成
人生の智恵――実践的・直観的叡智(霊智)
公共…人々に共有される、理解されて行為の指針となる
実践行為…運動、生活世界、実存(生き方そのもの)
愛の実践→友愛世界
人生への指針を与える哲学 新哲学主義 生きた対話の場
次にフィロソフィアについてですけれども、アカデメイアが学知を目標としているのに対して、こちらは実践的な智恵ないし叡智を求めるという点で「愛智の会」ということができます。ご存知の方も多いと思いますけれども、哲学(フィロソフィー)の語源はフィロソフィアで、もともとは「智(ソフィア)を愛する、智を求める」という意味です。この「愛する、求める」(フィロ)はギリシャ哲学ではエロスと近いですね。エロスは何かに向かっていくという愛で、フィロソフィアはそういう愛による智。あるいは愛に立脚する智を求めている、というふうに言うことができるだろうと思うのです。
そして特にこのフィロソフィアでは、プラトン哲学を原点として、形而上学ないしスピリチュアルな哲学を重視し、スピリチュアルな智恵の探求を目的としています。プラトン哲学においては、イデアの観照ということになります。ですから公共哲学の中でも、特に超越的な理念哲学がこのフィロソフィアの一番中軸にあるべき考え方です。
これから申し上げます昨年のシンポジウムでも、「スピリチュアリティと平和」というテーマを取り上げたわけですけれども、スピリチュアルな哲学を考えてみると、やはりヨーロッパ哲学では、一番原点にあるのは、プラトンの哲学で、それがその後、様々な形へと展開していくのです。
そこで、第1期のフィロソフィアではプラトンのテキストを中心に考察してきたのですけれども、元々は、プラトン哲学の議論が一通り終わった段階で、近代とか現代の様々な哲学についてテキストとして取り上げながら、議論を展開するという予定を考えていました。プラトン哲学に限定するのではなくて、その後の哲学総体を視野に入れながら、スピリチュアルな哲学の展開を考察してゆく。こういったことを考えていくのも、このフィロソフィアの中心的な目的の一つなのです。その後の流れでは、ドイツの観念論や、あるいはアメリカのtranscendentalism(超越主義)などがすぐに浮かびますけれども、「そういった思想を今日の地平でどのように再構成し、発展させていくか」ということがフィロソフィアの基本的な発想だろうと思っています。
それからもう一つは、山脇先生をはじめ公共哲学運動自体でも強調しているのですけれども、日本の一般的な哲学研究は、しばしば訓詁注釈学になっているところがあって、「今日の、現実の世界にどう適用するか」という実践面、あるいは「どう生きるか」という生き方に対する見解が弱いと思わざるを得ない部分があるのですね。これに対し、フィロソフィアは、同じ哲学といっても、むしろ実践志向の、「実践的哲学」を目指すのです。その意味で従来の(日本における)哲学の限界を超えようとしています。いわば、哲学を超える哲学という点で「超哲学」ということができるかもしれません。
第2期のフィロソフィアがスタートした時の一回目の講義は、イタリアのフィレンツェに行った直後に行いましたので、そのイタリアのルネッサンスの人文主義の理念を思い起こして、ルネッサンスの例をあげながら、「哲学と宗教と芸術の統合、真と善と美の統合を21世紀の地平において再構成する」という理想を述べたのです。私はアーティスティックな教養を持っているわけではないので自分で芸術作品まで作ることはできませんが、理念としてはそういうことを目指したいと思っています。
さらに、芸術(アート)はいわゆる芸術作品だけではなく、人生をはじめ様々なところに観ることができます。私自身の実践的公共哲学においては、人生のアート(技術ないし芸術)という表現を用いています。芸術のアートを応用して、人生のアートと言っているのです。もともとは、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』(紀伊国屋書店、1991年)における「愛のアート(技術・芸術)」という表現に触発されて、こういう言葉を考えたのです。愛のアートや人生のアートをどう養成するか。人生の智慧をどのように会得するか。これらを実現するためには、情報としての知識だけでは決定的に不十分で、実践的ないし直観的な智恵ないし叡智が必要になるだろうと思います。これをスピリチュアル(霊的)なインスピレーションによる智恵ないし叡智と考えれば、それは「霊智」ですね。こういったものも視野に入れて考えていこうとしています。
公共哲学という概念の中の一つとしては、人々に理解され共有されて、行動の指針となるような哲学という意味があります。そこで、現実の実践行為に非常に関わるのです。それは、たとえば各種の運動ないし活動とか、生活とか、実存(生き方そのもの)ですね。ですから、実践的公共哲学では、こういった実際の実践の中で生かしていくようなアートを「人生のアート」として追求しようと考えています。
次に、友愛という概念を中心として、理想世界、友愛世界という考え方を提起しますけれども、フィロソフィアではその実現に役立つような実践的な哲学の発展を目指すわけです。そういう意味では、これは、人生、あるいは人間の指針を与える哲学ということになり、日本における従来の哲学のイメージとは異なるので「新哲学主義」というふうに表現することもできると思うのです。
ソクラテスを想起すれば明らかなように、哲学の場においては特に対話が大事です。そこでは、生きた対話の場の形成も、新哲学主義の実践の一つです。
フィラデルフィア
フィラデルフィア(友愛会=友の会)
philadelphia フィリア(友愛・親愛)→兄弟愛・同胞愛の場
cf. philanthropy(博愛、慈善)
ウィリアム・ペン クウェーカー(神秘主義的、絶対的平和主義)
society of friends ――1681渡米してフィラデルフィア建設
連帯 実践的な愛
ex. 公共哲学ネットワーク、地球平和公共ネットワーク(友愛会が存在)、平和への結集、教育基本法改定に抗する大学人ネットワーク、国民投票法・改憲に反対する大学人ネットワーク
→友愛の精神の下に連携、統合 友愛ネットワーク=光のネットワーク
メタ・ネットワーク 様々な領域のネットワークのネットワーク
→「もう一つの世界・日本=友愛世界」の実現
都市フィラデルフィアの歴史
それから次にフィラデルフィアですけれども、これは訳すと友愛会とか友の会になるだろうと思うのです。フィラデルフィア(philadelphia)というのは,ギリシャ語のphiladelpheiaで、「phi(愛する)+ adelph(兄)+ ia(存在物)」という意味で、兄弟愛・同胞愛の都市を意味します。だから、アリストテレスが重視したphilia(フィリア、友愛)と関連しているのです。フィランソロピー philanthropyとも関連しており、博愛とか慈善とも共通性があります。
フィラデルフィアというのはアメリカの都市の名前なのですけれども、なぜあれがフィラデルフィアという名前になっているかといいますと、クエーカー教徒が建設したからです。これは、キリスト教の中の一派ですが、クエーカーは神秘主義的で、万人に神の内なる光が宿っていることを信じて、その導きに従って生きることを説きます。暴力を否定して、絶対的な平和主義や良心的兵役拒否で知られています。
そのクエーカーのウィリアム・ペンがイギリスからアメリカにわたって、1681年にフィラデルフィアを建設した。クエーカーは友会(Society of Friends)と自称しており、友愛の都市という意味で、フィラデルフィアという名前をつけたのですね。クエーカーでは友愛という言葉をよく使っています。それで、アメリカの都市というより、「友愛・兄弟愛の都市」という言葉の語源の方を意識して、フィラデルフィアという名称を使うことにしたのです。
私たちの会では、フィラデルフィアは、実践的な友愛のネットワークを意味しています。これまで、公共哲学を軸にしながら、様々なネットワークを展開して来ていまして、9・11以降にはじめにつくったものは、公共哲学ネットワーク。それからイラク戦争直前の2003年元旦に、研究者と市民とが連携して平和問題を中心に作ったものが、地球平和公共ネットワークですね。両方ともいま私が代表ですけれども、その地球平和公共ネットワークには、それを支えるグループとして、友愛会というものを作りました。それから、最近の教育基本法の改定とか、国民投票法案の改定時に、「教育基本法改定に抗する大学人ネットワーク」とか、「国民投票法に反対する大学人ネットワーク」などを作って3、教育問題や憲法問題についての色々な意見表明、あるいは署名活動等を行ってきているのです。
ただ、あまりにもこういう活動が多くなりすぎて、どうにもこうにもならなくなってしまいましたので、何とかここで私自身は自分の関わる活動を再構成したいと思い、今のような三部門構成を振り返りながら、今後自分の活動を全体として再構築してみた13いと思っております。
『非戦の哲学』という本を、ちくま新書から2003年に出しました。これは、9・11以降、私が公共哲学ネットワークのサイトに書いた様々な文章を、イラク戦が迫ってきたので、その前に新書にまとめたものなのです。その中の一つの章に、運動編というものがござい まして、新しい時代の運動論を提案しています。今は残念ながら売り切れで、新刊では手に入らなくなってしまっているのですけれど、そこで「友愛ネットワーク」という考え方を提起しました。
それは、平和をはじめとして諸領域において、友愛のネットワークをつくり、それらを相互に連携させるという構想です。友愛の精神のもとに様々なネットワークを連携、統合する。そうして光のネットワークがより広がっていくことによって、しかもそれがミクロからマクロへと展開することによって、社会全体の変革が達成される。こういう運動の方法論です。マルクス主義に対する批判から説き起こしていて、「かつてのマルクス主義的な革命運動が何ゆえに失敗したか。それに対してどのようにして社会変革を可能にするか」ということを考え、その方法論として「友愛のネットワーク」というものを提案したわけです。
そのようなネットワークは様々な領域に存在するわけですけれども、ばらばらになっていると力が小さいので、それらを相互に連携して統合していくのが、メタ・ネットワークという考え方です。これは「ネットワークのネットワーク」を意味しています。そういうメタ・ネットワークが広範に広がっていくことによって、「もう一つの世界」や「もう一つの日本」が実現していく。そのようなネットワークの目指す友愛の世界を「友愛世界」と呼ンでいます。
メタ・ネットワークやネットワークないしグループ間の連携を目指す実践的な試みもしてきました。地球平和公共ネットワークの有志が当初は提案して、平和グループ間の連携を促すために情報提供のフォーラムを作ろうとする試みを行い、pepop(peace portal program)というサイトを作りました4。また、政治的に選挙を意識した「平和への結集」も提案して、「『平和への結集』をめざす市民の風」という団体も誕生しました.
このように、『非戦の哲学』で書いた構想を、とくに平和問題を中心にして展開してきたのが、これまで述べてきたような様々なネットワークということになります5。ただそれぞれのネットワークは、はじめに友愛理念などをうたって結成したわけではなくて、それぞれの必要性に応じて作られています。私自身はこれらがばらばらに動いていて非常に今大変なので、何とか自分の活動を一つの形に統合して、連携を形成していきたいと考えているのです。
以上が、今まで私が第一期以来考えてきた理念のもとで今どういう活動を行っているか、ということを総括しながら整理したものです。これで第1部を終わりたいと思います。
3部門のイメージ
学びあい、生かし、巡りあい
①3つの円 ②3重の同心円
エピソード「大事な時を過ごしました。ありがとう。これよりの世にむかいて、必らず正しいまとを射ぬいてください。ひとつの大円です。」(2007.4.4)
この三つをキャッチフレーズのように考えてみると、「学びあい、生かしあい、巡りあい」ということになります。この三部門の関係をイメージとして考えてみると、二つのイメージが浮かんできます。
一つ目は、学問の中心であるアカデメイア、実践的な哲学の会であるフィロソフィア、友愛のネットワークであるフィラデルフィアは、それぞれ相互に重なるところもありながら、別のものなので、3つの丸で書く。それぞれに共通性もあるけれども、違う所もあるし、相互にお互いの活動を知らなくてもできる。メンバーも2つや3つに属している人もいるけれども、一つだけに加わっている人もいる。こういうイメージです。
二番目のイメージとしては、三重の同心円で描くことも考えられます。これはどういう意味かというと、一番初めに述べたように、当初のイメージは、「まず思想的・学問的センターがあって、そこから広範に広がっていくネットワークが形成される」というイメージだったのですね。
その思想的なセンターの中をさらに二つに分けて、アカデメイアとフィロソフィアというふうにしたのですけれども、アカデメイアの方は学問ですからある意味では広範な広がりがあって、その中には、社会諸科学や人文諸科学、場合によっては自然科学まで入ってくるわけです。
それでフィロソフィアの方は、哲学、とくにスピリチュアルな哲学を扱っているので、アカデメイアのさらに中核にフィロソフィアがあるというイメージが考えられます。ですから、「フィロソフィアを中核にしながら、その周りにアカデメイアがあり、さらにその外円としてフィラデルフィアがある」というように描くこともできるだろう、とも思ったのです。
おもしろいことに、先日、ある方と会ったときに、エピソードに書いてあるような言葉をある人からもらったのですが、ここにある「一つの大円」という言葉を見てこの3重の同士円のイメージを思い出しました。
以上、簡単ながら、3つの部門のイメージと、全体の活動の総括的なお話をしました。
